近作の掌編2編についての裏話など

海へと投げ渡されない手紙

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性別を特に決めていない、記憶喪失の主人公のお話です。個人的なやり取りなので詳細は伏せますが、歌友と話していて、この作品にも意識はしないまでもSF的手法を取り入れていたことに気づきました。
それはピアノや手紙といった人工物と、手紙を書きつづける人間の機械めいた行為の対比というご指摘で、ものを書く人間が人工物めいてしまうという描写は、劇場版「屍者の帝国」のフライデーからかなり影響を受けてきたなと感じています。

もの狂わしいほどにひたすらにメモを書きつづけるフライデーの、その筆記物の総体がワトソンとの旅の軌跡であり、また彼の魂そのものであったというストーリーは美しく、劇場に観に行けてよかった作品の一つでもありました。劇場を出た後、ゾンビが苦手な私は、しばらく世界がゾンビだらけになっているような感覚に包まれたことを鮮明に覚えています。
死者、そして記憶というテーマは、2022年夏からずっと書きつづけてきたものでもあるので、今後ともこうしたテーマに沿って、さまざまな角度から掘り下げていくことができればと考えています。
主人公の性別が曖昧なのは、ノンバイナリーという意識があってのことでもあると同時に、自分自身が10代から小説を書きつづけてきて、主人公の性別がどうしても曖昧になってしまうという手癖もあるので、あえて定めないことにしました。
どちらでもお好きな方で読んでいただいても、あるいは中性として読んでいただいても大丈夫ですので、少しでも味わっていただければと思います。

 

記憶の海の岸辺にて

kakuyomu.jpこちらも性別が曖昧な主人公と、海の果てから戦火を逃れてやってきた男のSF掌編です。
今の自分自身はSFを書くことでしか世界に対するまなざしをうまく表現できないという気持ちがあって、それまで商業で書いてきた和風異世界ファンタジーから距離を置いて、もっぱらSFを書いているのですが、別れた元彼が好きだったジャンルの音楽はもう聴きたくないのと同様に、和風異世界ファンタジーに戻ることももう当面ないだろうなと思っています。
自分自身にとって世界のありようをどう捉えるかということを、表立って言葉にすることは、2022年の夏以降、特に抑えてきて、今もノンフィクションという形で何らかの意見表明をしようとは思っていないのですが、現実の写し鏡としてのSFに惹かれているところがあり、それはパートナーがプレイして一緒に鑑賞していた小島秀夫監督作品の「メタルギアソリッド」シリーズや、アトラスの「メタファー リファンタジオ」の影響が大きいなと思います。

 

その政治的なポジションに必ずしも同調するものでないとしても、世界のあり方をいかに作品に落とし込んでいくかというSF的手法を、私は小説によってというよりも、JRPG作品を通じて学ぶところが多かったように思います。
小説やその他漫画などの作品でもSF作品は少なからず触れてきましたし、その多くは終末SFと呼ばれるジャンルのものが多いのですが、そうしたポストアポカリプス的世界観の中に今の現実があって、それをいかに描きなおすのかということについて、作品を書きながら考えつづけています。

答えは出ませんが、日々のニュース視聴によって感じつづけている違和感と、その違和感を形にしたいという思いが発端となってSFを志向している節はあるので、今後とも情報収集に努めながら、自分なりに創作という形でその問いなり応答なりを表現していければと思っています。